尾崎豊は何でまぶしいのだろうか


こんばんは、いつも夜は酔っ払っていることでお馴染みのt.itoです。

さて、今日も大好きな尾崎豊さんで更新です。長文になりそうなので、興味のない方は回れ右で戻られることをお勧めします。
特に、特定のアルバムのレビューでもないです。ホントに雑記です。 酔っぱらいの戯言くらいに読んでください。

10代の頃の尾崎豊さんと言えば、15の夜だとか、卒業のイメージで“10代のカリスマ”といったイメージが1人歩きしているようですが、そうでないと思う。 
ただ、“退屈で不条理な毎日をどう打破しようか!?” だとか“自分の理想にどう近づこうか?”といったようなティーンエイジャーが考えがちな「よく分からないけど、なんかモヤモヤした苛立ち」を的確に捉えていた。
たまたま、それが“不良少年の代弁者”みたいに捉えられていただけだと思う。ガラスを割っただの、バイクを盗んだだの薄っぺらなことだけ見てたんでは、彼の本音は見えてこないはず、うん。(尾崎自身はバイクを盗んでないですし・・・ ・・・)そーいうヤンキーな歌を聴きたいなら、嶋大輔とか横浜銀蝿を聴けばいいんだよ。まぁ、試しに彼の1stアルバムの数曲の歌詞を見てみましょう。
尾崎豊—十七歳の地図
口うるさい大人たちのルーズな生活に縛られても素敵な夢を忘れはしないよ  人波の中をかき分け 壁づたいに歩けば 隅から隅はいつくばり強く生きなきゃと思うんだ

そんで、15の夜の肝はここでしょう。バイクを盗むとかじゃねーんだよ。
“自分の存在が何なのかさえ分からず震えている 15の夜”
15歳ってそれなりに知識も増えて、成人並みの体格にはなった。煙草も覚えたし、一人前を気どりたい。 だけど、社会的には子供扱いされる。自我が確立されて周りが見えてきた。見えてきたら、見えてなかった頃に比べてイロイロ不安が出てきた・・・ ・・・おい、俺は一体どうしたらいいんだよ!?退屈な授業が俺達の全てなのかよ!?もしそうなら、俺のいまいきている意味ってなんなんだ?俺はどうしたら良いんだ!?家出でもするかね・・・ ・・・そういう歌なんだろうって僕は解釈してます。

尾崎豊—-愛の消えた街
愛の消えた街さ 昔からそうなのだろうか それが当たり前と言うには俺はまだ若すぎる 見つけたい見つけたい愛の光を 信じたい信じたい愛の光を

ほら、ヤンキーって言うよりは理想に燃える青少年て感じでしょう。(閑話休題)この前読んだ漫画『ソラニン』でいい事が書いてあった。
主人公の1人芽衣子の独白です。

あたしが思うに、大人は「まぁいいや」のカタマリだ。
お腹が出てきてもまぁいいや
鼻毛が出てもまぁいいや
捕まらなければまぁいいや
ココロなんて無くてもまぁいいや
どこかで戦争や災害が起きても 自分が無事ならまぁいいや

そう、最近そう思います。勤めだして周りの上司なり、自分自身が「まぁいいや」って諦めていることが多いことに気付かされます。だから、よく分かる。“問題が起きたけど、俺の責任じゃないからまぁいいや”といった具合に・・・ ・・・大人は諦めて妥協する生き物なのだと
だけど、尾崎少年は諦めない。俺はどーしたら良いんだ!周りがどう言おうが、俺は“こう”したいからってのがハッキリよく分かる。尾崎少年の心の中の深いところが滲み出ている。

“真に普遍的なものは、真に個人的なことである”

と、言うのは僕の恩師の言葉だけども、その通りだと思う。
お笑いで「あるあるネタ」が通用するのも、これがあるからだと思う。
尾崎豊の心の深いところで、溜まったモヤモヤだとか苛立ちが学校生活だとか、分かりやすい日常風景に乗せて雄弁に語られるから賛同を得たんでしょうね。特に、分かりやすい“バイクを盗む”だとか瑣末なことにを取り上げられたから、“カリスマ”扱いされたんでしょう。

で、後期の尾崎(壊れた扉から以降)が評価されない傾向があるのも、上記の要因があるためでしょうね。尾崎の中で切実なテーマなり、伝えたい彼の中の心象風景があっても、難解な言葉で表現を使ってメッセージが普遍性を持たなくなった。っていうことがあるんでしょうね。(後期の尾崎については、後日書きます。)

長々と書きましたが、尾崎の初期アルバムはバイクを盗むとかじゃねー、ってことです。

尾崎豊と関係ないけども、ここ数年で1番グラグラと心を揺らされた歌です。大好きな1曲です。
今日の歌“Joker by The back Horn”


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“尾崎豊は何でまぶしいのだろうか” への2件のフィードバック

  1. 銀蠅大好きなんですが、バカにしてます?
    当方ヤンキーでも何でもありませんが

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